金子光晴享年七十九歳、少年のはじらい、青年のときめき
2012-10-01 Mon 07:14
詩集という詩集はほとんど処分した。
三十代、四十代はまだ若さが残っていたが、忙しさにかまけて詩集を読もうなどという気が起きなかった。
読まなくなってたぶん棄てたのだろう。

それでも十冊ほどが手元に残った。

谷川俊太郎の詩集はわりかし残っている。
マラルメやランボー、ヴェルネールの行方は分からない。
文庫本で金子光晴詩集が残してあったはずだが、どこかにまぎれてしまった。

今あるのは最後の詩集『塵芥』だけだ。

僕はこの詩集を二十代のころ手に入れ、おりにふれ読みかえしてきた。
はるか遠くにあった四十代、五十代であったが、今は目の前に七十代が迫っている。
詩人は恋人が来なくなり、「そろそろ近いおれの死」をみつめながら、最後まで詩を書きつづけていた。

〈そろそろ近いおれの死に〉、〈十代〉、〈塵芥〉という作品がのせられている。
〈十代〉には、八つの詩がある。
十代、二十代、三十代、四十代、五十代、六十代、七十歳、八十代

最近気がついたのだが、七十のところだけ「歳」になっている。

『塵芥』は遺稿集だ。

「八十代」をうたったが彼は七十九でなくなった。

僕はこれをじいさんのバイブルだと感じ、手元近くに置いて、読みかえしている。

父も同じ歳で逝ったが、あの世へ出向くにはいい年頃だ。

昭和50年のことだから、もう三十数年前になるのだが、詩は少しもほころびていない。

“六十ともなれば男も、女も、
生えてくる毛がどこも、白い、
染毛剤はよくなったろうが、
染めている姿が困る場所もある。

従って、万端、むさくるしく、
人目に目立つのがひけ目になるので、
出会い茶屋の入口をくぐる勇気もなく、
さあ、これからは何を頼りに生きるか。

ひとには言えないことではあるが、
娑婆気の残物は、どこへすてたものか。”

出会い茶屋とはラブホテルのこと。

娑婆気(しゃばけ)の残物というのはわずか残された若さへの執着、現世の落とせないしがらみ。

峠 彩三『金子光晴 散歩帖』をもとめた。

その年の6月まで、金子の老体を写した写真がのせられてある。
写っているのはまさしく老人である、昭和40年代の吉祥寺とともに。
セッタに浴衣の老人はしかし、男に見え少年に見える。

錯覚だって?
冗談じゃない。老人のはにかんだ表情から浮かんでいるのは少年のはじらいである。
若い女をさらっと見過ごす眼に青年のときめきが写る。


金子光晴詩集 (岩波文庫)金子光晴詩集 (岩波文庫)
(1991/11/18)
清岡 卓行

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