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文学座「 青べか物語 」、消えてしまった原風景に立ち上る幻影のように
2017-05-25 Thu 09:47
 前後左右にゆれている。

 身体がゆれていた。

 脳の半分か、三分の二か。
 それが眠りこけている。
 うかつに座ったりすると、睡魔に吸い込まれてしまう。

 時差ぼけをかわしながら信濃町に着いた頃には「ぼけ」もだいぶおさまっていたが、観劇する体調ではないと思われた。

 文学座に興味はなかった。
 山本周五郎が好きだから、
文学座創立80周年記念・文学座5月アトリエの会「 青べか物語 」(戌井昭人脚色、所奏演出)の観劇に出かけた。

 舞台はアトリエだ。
 中央の渡りが舞台で、客席はそれを囲むように左右に分たれている。
 だから舞台は右から左へ、左から右という制約の中で組み立てられている。

 それが動態を生んだ。
 躍動感があった。
 もしかするとチンプな言い回しだが「生命力」のようなものが表現されていたのかも知れない。

 で、原作にもどってみる。
 青べか物語の描かれた背景を脚本家、演出家、それにぼくにしたって理解しているわけではない。
 タイトルに「べか」と山本周五郎が選んだのだから、と想像力をめぐらすぐらいしか実はやりようがない。

「べか舟というのは一人乗りの平底舟で、多く貝や海苔採りに使われ、笹の葉のような軽快な形をして」(新潮文庫、頁20)とある。
 一人乗りのべか舟だ、自分でこぎ出し一日精を出して貝や海苔採りしてどれほど稼げたか。
 この一文で貧しさを認識せよというのはムリがあるだろうが、とにかくその日の暮しを立てるのがカツカツの貧しい生産性であることは分かる。

 ぼくたちはそうした貧しさというのを実感したことがないし、知らない。

 だからだろう、どう描き出そうが上っ面なのである。
 原作を読んでも、そうした欠陥は決定的に引きずる。
 それはほぼ致命傷である事態なんだと思う。

 だからそれはもう原風景を失った者、時代が抱く幻影でしかない。

 で、
「砂は生きている。だから死ぬ」
「人はなんによって生くるか!」
とまくしたてられても、みごとにアブストラクトで、指のあいだから砂がこぼれていく。

 その生き様を人情、猥雑(わいざつ)、狡猾(こうかつ)、無神経、しかして生命力の発露といわれても首を傾げる。
 それは失われた原風景にしか育たない、何かであった。

 おさいちゃん役の下池沙知(しもいけ さち)がよかった。
 彼女にはアクチュアリティーがあった。
 女の直線的、直感的なactioがあった。

 ぼくの脳髄はべか舟でゆられ酔ったように、ぼけが最後まで抜けない。
 山本にとっては実感であったものが、空想的なのだ。
 時差ぼけは幸いした。

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