般若心経、玄奘訳とサンスクリット語原典訳
2017-04-10 Mon 10:05
 クランク状にのびた位置指定道路の両側にそって、およそ二十戸ほど戸建てがたつようになって、四、五十年でしょうか。
 行き来があるのはその半分ですが、それでもなにかと交流はあるものです。
 東京の郊外にうまれた住宅地の一つなんでしょうが、Oさんは季節ごとに庭木に実る柿や柑橘を持ってきてくださる八十八になるおじいさまです。

 十六七年前に奥さんを亡くされてからは、よく近所を散歩されておりました。

 朝あいさつをかわしたはずなのに、夕べには亡くなっていました。
 救急車が呼ばれたようですが、出かけていて知りませんでした。

 Oさんの通夜には曹洞宗の御導師が来られ法話の後、たぶん修証義(しゅしょうぎ)、舎利礼文(しゃりらいもん)、般若心経(はんにゃしんぎょう)が読誦されたと思います。
 さて、なかでも般若心経です。

 百冊を越える関連本のなかでも、自分が親しむテキストは岩波文庫にある中村元・紀野一義訳注『般若心経 金剛般若経』です。
 右頁に玄奘訳の『般若波羅蜜多心経』(はんにゃはらみったしんぎょう)をのせ、
 左頁にはサンスクリット語原典からの翻訳をのせています。

 漢字の一文字(器)には一つの概念が盛られてあります。
 読み下していくと、左右ではずいぶん印象が違います。
 どうしても空、色等々の漢字一文字一文字にとらわれ、解釈に呻吟し、素直には読み下せません。

 同書の解説から学ぶことも多く、「原写本にない文字や文句は付け加えないこと。原写本を改めたり、また見出されない文字や文句を自信を以て附加することは、研究者にとっては非常に魅力のある仕事ではあるが、よほど学殖を必要とするのみならず、なお危険である」と戒めています。
 玄奘訳とサンスクリット語原典訳とを比較する能力はありませんが、何事か付加されること少なく読み下せるのは後者です。

 前者はいかにもありがたみがありそうですが、読誦を聞いても何を言っているか分からないのですから、何事も伝わらない事といっしょです。

「お経」を聞いて何も伝わらず、しかしありがたいとは思えません。
 率直な気持です。
 漢訳を読み下した「お経」から思考することはやめ、話し言葉で書かれたそれを何度も読返すことにしています。

 御導師によって読誦のリズム、抑揚もそれぞれですが、両訳をくり返し読み下すようになって、耳にそれが入ってくるようになったのは確かなようです。

 淡いおつきあいでしたが、Oさんから伝わる温かな気持を思い起こしておりました。

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