バブル時代のある男
2016-03-12 Sat 10:02
Nの取り出した手帳は市販のものでは小型の方で、手のひらを隠さないほどに見えた。左欄はスケジュールを書きこむごく平凡なスタイルであったが、右欄はメモ欄になっていて、そこに細字でびっしりと何か書き込んである。文庫本の注釈や訳註に使われている5ポイントほどの文字がびっしりと埋め込まれていて、エンピツで塗りつぶしたように漆黒のページが次々と現れる。

仕事柄彼はスーツを着ないようで、いつもジャンパーのような軽装をしていたからスボンにでもそれをしのばせているのだろう。ズポンのポケットに突っ込んだ手帳は、小さいから折れにくいのだろうか。紙質は上等で柔軟でさらさらとめくっていくスピードにめを奪われ、何が書いてあるかはついぞ分からない。

「何を書きとめるんですか。」
「いやね、日記は苦手なもんだから。新聞だとか雑誌とか、目についた記事や感心する言葉なんかをね、書きとめている。」
勉強家だとすなおに思ったが、口には出さなかった。
地元で名の通った高級寿司店を経営していて、成功者であった。一介の寿司職人から店をもり立てたのだという自負があって、まだ俱楽部に入会したばかりの僕にそれを披露してくれたようだった。

「そんなに手間をかけるのはどうしてですか。」
「読返すんですよ。勉強は得意じゃないから、自分をはげましてくれる文言をみてると元気になる。」
自分を鼓舞する言葉。いつも振り返るために、こまめにメモを手帳に残す作業が、彼の自負心を支えていたのは確かのようだ。僕は彼のもう一軒の店舗である蟹専門店でそれをみせられたが、それは説得力のある証拠として今でもはっきり記憶している。

その頃僕も世間も浮かれていた。どう浮かれていたかを説明するのは難しいが、同業者の友人の三十坪ばかりの土地を仲介し、手数料に五百万近い大金を手に入れ、使い道もないので貯金したことを覚えている。Nもまた、成功の証しか、寿司屋では十分には満足できない気持ちもあってか、土地売買やマンション販売のための不動産会社を立ち上げていた。十年ほどのつきあいだったが、その辺の事情はくわしくは知らなかった。

自分もそういう土地売買にからんでいたから、とりたてておかしいこととは思わなかった。印象が薄かったのは時代が狂乱していたからか。自分も一時は十数ヶ所の土地を持ち、その売買から今となっては信じられない利益を上げ、ひとかどの資産家に自分もいつか加わるのだろうと勝手な慢心に酔いしれていた。

俱楽部の仲間で共通の友人Oさんが苦境にある、そんなうわさ話が私の耳にも入るようになり、その辺の事情をはっきりと知ることになった。それは今でも駅前に建てられたタワーマンションの彼方に、ブルーの三角帽子をのぞかせている。だだっ広いワンフローアーが各階にあって、ずいぶん放漫な間取りだった。

それが売れ残ったのもバブル崩壊で片づけていいのだが、節目が変わってからは土地という土地が、何か価値も実体もない落下物のように値を下げはじめ、それは虚空をどこまでも舞い降りていった。

飲み友のOさんはNの会社の役員として、役員保証をしていたらしい。本人からそのことを聞いたことはない。彼は本業の設計事務所のある自社ビルを出て、友人が使っていた選挙事務所に引っ越し、細々と仕事を手がけていたが、いつの間にか街から姿を消した。

そんななかNはいよいよ行き詰まり、どこかへ夜逃げしたという噂が立った。高級寿司店は閉じられ、何ヶ月か閉鎖されていた。
それがいつの間にか再開するようになり、以前と変わらぬ風景が戻っていた。狐につままれた気分の中、これも噂の範囲を出ないのだが、街金に追われ連れ戻されたそうだ。彼から何もとれなくなった債権者は彼の才覚から回収をはかる。いくらかは回収できるのだから、ないよりましという算段だろう。

こうしてさらに十年ほど営業していたが、とうとう閉店したのはそれから十年後のこと、一昨年で、そこは中華料理店に改装されていた。

今Oはどうしているか暗うつな思いがからまる。
が、Nにはまったく同情はない。友人のOを失ってこの街から消えて十数年たって、今生きているのかさえ分からない。プールや暖炉のあるメゾネットの住いや、持ちビルはこわされ今では建売や病院が建ってる。
何もかもが変わってしまった。僕は親友だったOさんのことを書きたくてはじめたのに、書いたのはNのことだった。

僕もNと同根だ。たまさか生き残ったにすぎない。
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