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存在は存在、恋は恋ーハイデガー「存在了解」の意味ー
2016-03-04 Fri 08:59
ハイデガー『存在と時間』は未完である。
彼は「「存在一般の意味」、「存在とは何か」を問うているが、答えられるはずの問いとともに、それは未完の彼方に放置される。
問いだけが残された。
こうして読者は、一種巧妙な謎解きへと引きずり込まれる。

ハイデガーの哲学的思索をたどることを強いられるのである。
思「索」である、ハイデガーのつむいだ文字を、文脈を、飛躍をひもをたぐるようにもとめる。

熊野純彦訳『存在と時間(一)』を読み終えた。
四分冊の一である。
各分冊の冒頭に置かれた熊野氏の梗概、本文、熊野氏の補足、段落ごとの注解、それにハイデガーが自家用本に書き込んだ「欄外注記」を行きつ戻りつ読込んでいくと、本文そのものを数度も読返す羽目になる。

それらを巻末にまとめて置けば足りそうのはずである。
なんと煩雑なんだ、と思っていた。

しかしどうだ、おのずと読込むことへと追い立てられていたのである。

こう読むよりしかたがない、という読み方をするしかない。

ひと旅行した思いで、休みを入れる。
木田元の著書から、「存在了解」「世界内存在」「超越」に関わる記述を読返す。
つまりは復習である。

木田元の著書から、「存在了解」

木田は、三つの命題を取りあげ、「存在了解」をできるだけ簡略に説明しようとこころみている。

「現存在が存在を了解する時にのみ、存在は〈ある〉」(全集第二十六巻199頁)
「存在は了解のうちに〈ある〉」(同上)
「現存在が存在するかぎりでのみ、存在は〈ある〉」(『存在と時間』212頁)

木田は、〈ある〉に〈エス・ギプト〉とルビをふる。

Es gibt〜は、There is〜のことだ。
ごく日常に使われる慣用表現である。
ドイツ語初等文法書に出てくる。

Es gibt hier in der Nähe ein gutes Restaurant.(この近くにいいレストランがあります。)

で、木田は〈エス・ギプト〉とルビをふった理由をるる説明し、「もし気になるのなら、この〈エス・ギプト〉を〈与えられる〉とか〈生ずる〉と読んでもらってもかまわない。」と言い出す。
そこで、三つの命題を納得の行くまで、そう読返してみる。

辞書や文法書を取り出し、
gibtはgebenの現在第3人称単数形、
gebenは「〜を与える」、Gib mir das!(それください)という用法から納得して、そう読み下す。

そうしておいて、木田は次のように明かす。
“これらの命題は、〈存在、ザイン、Sein〉は現存在のおこなう〈了解作用〉、つまりは〈存在了解〉の働きのうちにあるのだ、と言おうとしているのだ。ハイデガーの考えでは、〈存在〉というのは、現存在のおこなう働きなのである。”

さらに木田は、〈存在了解〉も〈存在企投〉も同じ事態を視点を少しずらせて捉えているだけだと指摘し、後年ハイデガーがこうした事態を〈存在の生起〉とか、ただ〈出来事〉などと呼ぶようになるとしてつぎのように記す。

“ところで、こうした〈存在企投〉、つまり〈存在〉という視点の設定は、人間が意識的におこなったりおこなわなかったりするようなことではない。気がついたら、すでにそうした視点に立ってすべてのものを〈存在者〉として見ているのである。たしかにそれは、人間のもとで起こる出来事には違いない。だが、それは人間の意思を超えた出来事なのである。”

そこで初学者はこの一句に徹頭徹尾魅かれ、その意味を考えつくそうと思うのであるが、〈存在〉を〈恋〉と入れ替えても成り立つと思うと、なにか楽しくなってくるのだ。
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