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鍋島焼ー和様の唯美を担った囚われの陶工ー
2016-02-03 Wed 11:59
鍋島焼のコレクションは箱根の岡田美術館で幾度となくみている。
明日は渋谷の戸栗美術館へ『鍋島焼展』をみにいくので、事前メモをつくる。

みるためだ。
説明書きなど余計なモノを眼に入れたくない。
そのものをみる。

一応読み通したことのある、矢部良明『日本陶磁の一万二千年』第Ⅴ章十六「和様の唯美、鍋島焼の献上物」から抜き書きをつくってみる。
ブログを書くのとあわせて、自家用メモをとる。

・他の藩窯が茶掏を主要な作種としていたのに対し、鍋島焼は当時としては当然あるべき茶掏を外してしまうという大胆な試みをした。際立った様式統制を敷き、完璧な技工美を旗印に掲げ、茶掏を離れた。
・そのコンセフトとは、あくまで食器に徹することであった。献上物と都合物の二つの製品ではじまりながら、元禄六年「指令書」以降は献上物に集中し、都合物に触れる事は少ない。
・初期の鍋島焼は、木盃形をした高台の少し高い、平たい単純な円形皿であり、この段階で早くも一尺、七寸、五寸という寸法が決まっていた。鍋島焼は伊万里焼をはじめ、世界のどの窯にの陶磁器にも類品のないこの形を、まず、独創の礎としたようだ。
・盛期の鍋島様式は、独創の旗印を高く掲げつつ、絵具から濃染めの技にいたるまで、優美典雅な唯美に向かってさらに磨きをかけることとなった。色絵の場合、必ず図様の輪郭を薄い染付けの細線で骨描するという、入念な手法をとりはじめた。全面塗りつぶし法は用いなくなり、意匠力に余裕ができて、うっとりとするような親近性も生まれた。
・純度の高い唯美主義はどの作をも貫流して、鍋島様式を孤高のごとき秀峰に仕立てあげた。

手持ちの資料『日本の陶磁10 鍋島』の林家晴三「鍋島解説」から。

・そこに示された技術の練度の高さは柿右衛門様式の時期をはるかに凌ぎ、最上質のものは清時代の康熙、雍正の官窯に比肩しうるものであるといって過言ではない。
・きわめて興味深いのは、作品の意匠が他のどの色絵磁器よりも多種多様で、しかも従来一般に指摘されているように、鍋島藩窯のり意匠家たちが考えおよぶ限りのすべてのパターンに(中国的な発想の意匠においても)、純日本的な様式を示そうとしているのは大きな特色である。

『日本陶磁全集25 鍋島』においては、矢部良明が「概説/鍋島 献上物の美」を書いてあるが、角田守男「極限の様式美」が興味深い。

・民窯の者でも腕のすぐれた者は、御用細工人として抜擢した。士分を与えられ、苗字が許され、公課、苦役が免除され、扶持米までもらえ、優遇された。
・藩直営の大川内山秘窯にあっては、細工人は囚われの生活であったようだ。近代的にいえば、人権を侵害された管理社会である。大川内山入口近くに関所跡の立て札があり、・・・陶工無縁塔がある。ピラミッド型の寄せ墓で、八百八十基の陶工の墓である。
・色鍋島の技術を継承する今泉今右衛門(第十三代)は語る。「藩窯の職人は三十一人でした。細工人が十一人、捻り細工人四人、絵描き九人、下働きの者九人です。(中略)鍋島藩窯のシステムは、もちろん中国官窯のシステムが輸入されたものでしょうが、この完全な分業体制システムの上に乗って、はじめて格調の高い鍋島が生まれるんです」
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