「われわれがないのではなくてあるというなんでもない事実」
2016-01-12 Tue 15:59
ジョージ・スタイナー『マルティン・ハイデガー』を読んだのは十五年も前のことです。
たまに、そしてたまたまハイデガーに出会った初学者にとっては、初めて読むのに等く、読み通すのに難渋しました。
それでもどこか新鮮な感動もあって、入門書にしては晦渋な筆運びにどうにかついていけたと感じています。

スタイナーの問題意識は、ハイデガーの国家社会主義(ナチズム)への関与、その人間的資質に関することなど多岐にわたっています。
ここでは、その一つである「ハイデガー自身が、Seinつまり〈存在〉の存在定義にー純粋な同語反復でもなければ、隠喩でもなく、無限遡行的連鎖でもないような定義にーゆきつけなかったということは隠しようもないことである。(『マルティン・ハイデガー』P.39)」にしぼって、自分用メモ〈ブログ〉を記すことにします。

それはキリスト者、キリスト教神学にかかわることですが、ぼくらには備わっていない(失われている)「文脈」、宗教的背景の問題です。

聖書は愛読書ではないので、くわしいことは分かりませんが、橋爪大三郎『教養としての聖書』によれば、ヤハウェ(神)の手で土の塵から人が造られた。
人もそうですが、ヤハウェが世界を創造したとあります。
言い直せば、「すべて」を、一切合切を創造したのがヤハウェだということです。

ヤハウェ(神)の脚注はこのように記されています。

“ヤハウェ モーゼがシナイ山で神と対面した際に、神が教えた神の呼び名(出エジプト記)。ヘブライ語の「存在」するという動詞の派生形で、英語の「being」にあたる。(『教養としての聖書』P.39)”

「あなたは何者なんだ」
モーゼの問いにヤハウェは答えます。
「わたくしはある。わたくしはあるという者だ。」(『教養としての聖書』P.73)

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の根幹にあるのが、これです。
そうした一神教信者にはごく平々凡々たる「前提」ですが、ぼくらにはこうした発想は全く欠落しています。
一神教をすなおに受け入れる、また理解するのは至難であるわけです。

そうした事情はあるものの、予備知識を頭に入れ、ようやくキリスト教者の当たり前の思考ベースに立つことができそうです。
基礎も土台もない、ぐらぐらとゆれる危うい柱のように頼りないのですが、しだいにハイデガーと神学との親和性に気付かされます。
こんなくだりがあります。

“ハイデガーは神学の外で思考することを決定づけられている。彼は、自分の基礎的存在論が神学外的なものであり、それが神の存在なり属性なりについて絶対に何も語っていないことを力説している。しかしながら、わたくしの体験では、ハイデガーの存在、存在と存在者の存在論的切断というパラダイムと表現は、ほとんどすべての点で、存在(ザイン)に「神」を置きかえても通用する。(『マルティン・ハイデガー』P.286)”

スタイナーは「われわれがないのではなくてあるというなんでもない事実」にマルティン・ハイデガーは驚がくし、Seinに挑み、しかし「われわれはただ同語反復的に、存在は存在であると述べるしかできない(『マルティン・ハイデガー』 P.284)」循環的な道にはまってしまうと指摘しています。

ハイデガーの初学者としては、そうした文脈の中で『存在と時間』を読返して見たいと思っています。

同時に、キリスト教の理解を欠いていると、おおよそのことでも的を外すので、注意したいとあらためて感じます。
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