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堺 幹夫のこと
2015-12-28 Mon 15:21
名画は美術館で出会えます。
それで充分です。
なにしろその一つを手に入れるには全資産を費やさないといけないのですから、望むべくもありません。

美術館に足を運んでも集中力がないため、しかり鑑賞するのは一点か二点です。

場内を行きつ戻りつ、気に入った作品の前ですごすのですから、無精な鑑賞法です。

蒐集には無縁でしたが、何かのきっかけでそうしたクセがついたようです。
以前はゴッホやモネの絵画ポスターを額に入れてました。
せっかく集めた絵画ですから、部屋のあいた壁にかけるようになります。

するとがぜん蒐集エネルギーが増したのは確かです。

蒐集するのは、何事かいまだ描き切れていないが、途上を感じさせる作品です。
その作家が何をめざしているのか、それがおぼろげにつかめれば物色の対象になります。
そして、それは自分の余裕において、そこそこ価格であることが条件になります。

表現者の、その途上を見つめることで何事か伝わってくるのを感じます。
そうしたある意味ではいかにも中途半端な作品として仕分けされるのでしょうが、途上であることによって、訴えてくるものがあります。
いわばまだ希望なる原動力をもち続ける若者のような存在であるわけです。

そして、それはなにも若者である必要はないのです。
若さの特権ですらありません。
先を感じさせる、感じる作家です。

彼は途上という到達点にあって、なお次を感じさせる余力を秘めています。
未完成とか、未熟を意味しません。
可能性をのぞかせ、その時点においてある到達点を穿っているのです。

人は永遠ではないのですから、未完で終わるしかない。

堺 幹夫『きりび』
*堺 幹夫『きりび』〈部分映像〉

堺 幹夫をしったのは、福田和彦編著からでした。
『現代の裸婦美術』(河出書房新社、1982年6月)、『エロティックアート』(日本芸術出版社、1983年11月)、『裸婦』(実業之日本社、1984年10月)です。
彼のことを、google画像で検索すると、裸婦画がゾロゾロと出てきます。

一見したところは、春画の類いです。

それらネットに出回っている作品群は和田氏が述べているように「光よりも強烈な官能美を描くロカイユな画家であり、閨房画家」ですから、画像にあってはそうみえてもしかたがありません。
jpgの画像では萎縮して、醜悪にすら映ります。
ですから、彼の実作と出会ったときは、その落差にあらためて蒐集の面白味を感じたものです。

二点彼の作品を持っていますが、さすがに部屋に掛けるのはちゅうちょします。
「エクスタシーを昇華し、蒸留した裸婦像」(福田和彦編著『エロティックアート』から)
いずれと思っていますが、今のところ秘蔵するしかなさそうです。
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