大いなる危惧、「至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり」
2015-07-21 Tue 07:45
二人の座右の銘があります。

「自ら顧みてなおくんば千万人ともいえども我行かん」
自反而縮 雖千萬人 吾往矣 [公孫丑章句 上]

「至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり」
至誠而不動者未之有也[離婁上]

上段が岸信介元首相の、下段が安倍現首相の座右の銘です。
ともに『孟子』からの引用です。

『孟子』に親しんできた経歴がありませんので良くは分かりませんが、「至誠」については日本人のメンタリティに深くふれてくるところがあり、日本人の価値観として重んじられているという事は常々感じています。
疑いもなく、あるべき姿として受け止めてきたのですが、中村雄二郎『宗教とは何かーとくに日本人にとって』で、西田幾多郎『善の研究』(1911年)「第三編 善」に関し、次のような指摘に瞠目し、懐疑的に考えるようになりました。
「至誠」について違った見方がある事を知り、この国の一部指導者に巣食う「至誠」観に大いなる危惧を感じるようになりました。

以下引用します。

“ところが、あるとき、西田がこの編において道徳的価値に置いているのが〈至誠〉であることに気がついて、そこに大きな問題が隠されているように思われた。なぜなら、〈誠〉あるいは〈至誠〉が道徳的価値として絶対化されるとき、そのために〈嘘をついてもよく〉、さらには〈人を殺してもよい〉ことになりかねないからである。〈誠〉のためであるなら嘘をつくことも殺人をおかすことも許される、というモラルあるいはメンタリティが、われわれ日本人の社会生活において潜在的にあるのではないか、と思い至ったのである。”
[中村雄二郎『宗教とは何かーとくに日本人にとって』 岩波書店 (2003/8/20) P.80]

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