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試験管一輪、いつも緑であること
2015-04-13 Mon 09:38
友人のアパートでした。
1Kのトイレは板戸で、洋便器に改造されていました。
和式の面影が残り、むき出しの柱が残されています。

奥行き四尺五寸(135cm)の狭いトイレでした。
柱が露出した真壁で、柱と壁の隙間の分が狭い空間を救っていた具合です。
引っ込んだ壁は漆喰で塗られ、クロス張りにはない古びていても落ちつく部屋です。

その柱にワイヤに巻かれた試験管が吊るされ、観葉植物を一葉さしていた。

1

たまに水やりするだけで生息する丈夫な植物です。
手をかけることがいらない。
でもその緑は生きていて、時の流れを無視したように、いつもわずかな緑を蓄えているのでした。

時がたち、流れ、自分というものが変化しているのに、いかにもいつも緑であることに安堵するのです。

掛花入に興味をもったのはその一本の試験管があったからだと思います。
それは茶室に掛けらてあるのですが、もとよりそんな気のきいた部屋をもてません。
たまたま大樋長楽の手頃な掛花入を求めたので、これに何を差そうかと考えるようになります。

花を生ける、そんな気どったものではありません。
花生けに気をとられるのではありません。
花に出会うのです。

2

先日MOA美術館で備前の花生けを観ました。
その上に牡丹を活けた写真があります。
気の抜けた気持ちになりました。

美術品だから活けるようなものではないのでしょうが、試験管花生けにも劣ります。

備前に牡丹です。
ありふれています。
凡です。

けれどそれとこれとを結ぶことを発見したときの気持ちはどんなものか想像します。

幼い頃牛乳瓶にさした雑草の花。
花をさす。
それは美意識とは遠いものか。

写真備前牡丹活けが試験管や牛乳瓶にかなうはずはないと思うのです。

3
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