コンブルジョアジーの国スイスから見た統一地方選挙
2015-04-07 Tue 15:27
道路がさわがしい。
街宣車が通り過ぎ、まきちらす連呼が選挙制度のうつろな叫びのようにきこえる。
救いようのない制度だと感じ、投票所へ向かう気持ちを削っていく。

それは希望とはほど遠くなった。

議員による議員のための議員の制度で、絶叫し、時に猫なで声で打ち捨てておいた民に見せかけの迎合を演じる。

いつしか自治体選挙とは言わなくなったようだ。
統一地方選挙というようになった。
自治がないからだ。

「地方というのは権力の関係です。自治体というのは自由の関係です。この相反する二つの関係が混同されているのが、地方自治体というものの実体および概念です。ご覧なさい、現在日本の地方自治体は自治省および自治大臣の権力のもとにおかれています。地方自治法を管理する自治省がけっして地方自治省といえないのは、地方自治などというものは自治ではないです。」(羽仁五郎『都市の論理』P.25)

「日本の民主主義を都市自治体を中心として確立すること、とくに、日本の都市自治体財政が国家財政に従属している現状を打破して、都市自治体財政を日本財政の主体とし、自治体が国家に委任することを適当と判断する事業についてのみ国家財政を成立させるということは、現在の日本においては革命によってのみ実現されるものであるかもしれません。」(羽仁五郎『都市の論理』P.45)

沖縄を見るまでもなく「権力の関係」であることは、安易に合点がいく。
「自由の関係」とは何だろう。
想像すらできない何かを指し示している。

四十年以上昔になるが、ベストセラー、少なくとも学生の間では羽仁五郎『都市の論理』がバイブルのように読まれた時期があった。
しかし、日本においては具体の過去はない。
羽仁は堺をあげているが、乏しい例証はこの国の成り立ちに自治の歴史がないことをあからさまにするだけだった。

同時期僕が熱中したのは平田清明『市民社会と社会主義』だった。

“ジュネーヴで、ルソーが安楽椅子に坐っている島を見ながら、モンブラン橋を渡ると、日本でスイス独立記念碑と呼ばれるものが立っている。二人の人間が肩をくんだ像である。この像のうしろには「八つのカントンのコンブルジョアジー」と大きく彫られている。八つのカントンが同じブルジョアとして連合する、という意味である。これについては、日本で知ってはいたが、スイス人が今日このコンブルジョアジーという言葉を知っているかどうか、確かめたくなった。
 急に降り始めた雨を避けて、街路に出ているレストランのテーブルで休んでいる時、隣に坐った二人の老婦人に尋ねたところ、彼女たちは直ちに答える。「私たちは違うカントンの人間だが、今こうして一緒に相談している。あなたは違った国の人間だが、ジュネーヴの眺めを、スイス人と楽しんでいる。これがコンブルジョアジーだ。」
 よく知られているように、スイスは、4つの民族と4つの言葉を持つ国である。高い山と原野で隔たった、言葉も通じぬ人間たちが、ハプスブルグ家の支配に反抗するために、1353年、コンブルジョアジーという形式で、まったく人為的に作り上げ、維持してきたもの、それが今日のスイスである。人為的に作り上げた国、ペイ(地域)のうえに《共-市民関係》として人為的に作り上げた人間生活の一状態、それが、国家としての国なのである。(中略)
さすがルソーの国だけに、社会契約論という論理的虚構がもつ歴史的真実性を、考えさせられるなァ、と思ったものである。”(P.17)[注]カントンとはスイスの州のこと。地域。

ふるさと納税というぜい弱な財政基盤を国家に心配してもらう存在が自治であろうはずもなく、それにふさわしい統一地方選挙がおこなわれている。

他に変わる制度は存在しないと思考停止になることはないが、再び遠くからきこえてくるスピーカー音にかかき消され、それが幻のように思えてくるのを止めようもないのである。


市民社会と社会主義 (1969年)市民社会と社会主義 (1969年)
(1969/10/25)
平田 清明

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