縄文土器の魅力ー科学技術と純粋芸術の二重性ー
2015-03-16 Mon 16:04
以前から焼き物に興味があったわけではありません。
それに魅かれ蒐集、研究している人に興味をもったというのが発端です。
なぜそんなに夢中になれるのか、どこに魅力があるのか。

土器が生まれて来た歴史を調べてみようという気になり、基本書に矢部良明『日本陶磁の一万二千年―渡来の技独創の美』をすえました。

取っ掛かりとなったのは、第1章「原始美術時代の土器」と第2章「豪族の時代の陶器」です。
基本書にはこうあります。
「自然の作用を応用して、人類が自然には決して存在することのない造形物をつくるという意味で、土器づくりは科学技術の濫觴であったばかりでなく、純粋芸術の第一歩でもあった。」

濫觴は「らんしょう」と読みます。
デジタル大辞泉によれば、“揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないという「荀子」子道にみえる孔子の言葉から》物事の起こり。始まり。起源。”とあります。
精選版日本国語大辞典には、“細い流れ。流れの源。転じて物事の始まり。起源。起こり。もと。”とあります。

「更新世から完新世にかけて起きた日本列島における環境・生態変動に対して、当地域に住む人類が適応した文化」〈石川日出志『シリーズ古代史1 農耕社会の成立』 P.23〉と見る視点から、「液体を煮沸できる容器」としての土器の誕生を捉えなくてはなりません。
「土器の出現は、新しい環境への適応の大きな一歩であった。」〈同書 P.27〉
「煮る技術を獲得したことによって、澱粉エネルギーの利用がはじめて可能になった。」〈同書 P.27〉

しかも、他方「やはり縄文土器をもって、日本の美術史は出発しなくては」ならないわけです。

魅力の一端はその二重性(duality)にあるようです。
光のもつ粒子と波動の二重性であるとか、商品の使用価値と価値という異なる二つの価値の弁証法的展開によって『資本論』がつむがれているように、二重性(duality)の魔力を秘めています。
『日本の陶磁』『日本陶磁全集』『日本陶磁大系』でその姿を確認しながら、副読本もどんどんたまっていきます。

・岡本道雄『縄文の生活誌』
・玉田芳英編『史跡で読む日本の歴史 列島文化のはじまり』
・佐藤洋一郎『縄文農耕の世界』
・中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』
・コリン・タッジ『農業は人類の原罪である』
・吉野裕子『日本古代呪術』

どこへ連れて行かれるのか分からない不安はまったくありません。
むしろワクワク感だけが増してまいります。
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