泣き、立ちなおり、追想した
2014-08-19 Tue 13:50
読書しながらパソコンの前を離れられない。
それは検索を携えているからだ、
ネット大百科事典が使えるというのが理由である。

キケロー著中務哲郎訳『老年について』を読返している。

解説は飛ばしてきたが、あらためて読んだ。
解説を理解するためにひとしきりネット・サーフィンする。
一つの作品としての翻訳をそのまま受け止めてきたから、解説は必要ないと省いたのだ。

浅学者には読みくだけない箇所も多いが、解説は独立した読み物としてもおもしろかった。

二十代の前半の頃だが、ドストエフスキーを読みあさった。
もっぱら米川正夫の訳書である。
それになれ、その後他の翻訳者を読んでもなじまない。

息づかいが違う。
いまだにドストエフスキーを読返してない言い訳にもなるが、そんな感じだ。
あたかも彼(訳者)が書いたかのように、こなれきり、翻訳のにおいすら感じないのである。

解説のなかに、訳者の琴線に触れた本として、E.M. フォスター著 小野寺 健訳『フォースター老年について』の紹介があった。

“(中略)訳書で僅か八頁の小品ながら、さすがに老年の諸相を尽くしている、五十六歳の訳者には思える。「人の死に正しい悲しみ方をした者がいるかといえば、ギリシャ人がそうだった。ギリシャ人は泣き、立ちなおり、追想した」という。”

中一からの親友が死んだ。
亡くなってから数ヶ月後に死んだと知らされた。
いまだお墓参りにもいってない。

手紙で知らされたのであるが、泣けなかった。
いまだに泣けない。
はぐらかされたような、宙ぶらりんの気持ちが続いている。

葬式などどうでもいいと思ってきた。
しかし生きている者には区切りがつかない。
「泣き、立ちなおり、追想」できないのである。


老年について (岩波文庫)老年について (岩波文庫)
(2004/01/16)
キケロー

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