三密は確率的行動を取りなさいという示唆なんだが、それが実用化していない。
観念論になってしまっている。
密が一人歩き、つまりは観念化してしまった。
ぼくの場合、マスクをつけて歩くと苦しい。
いつでもどこでも、マスクをつけなければならないというが、人目を気にした縛りが過半を占める。
他人の視線や沈黙の非難を優先している。
過剰な抑制に傾く同調行動を取らないためには、自立心と確信がないとやり通せない。
確率的な行動様式にして、風通しを良くしたいと考えた。
散歩する。
公園に行く。
買い物に出かける。
マスクはしない。
店に立ち寄る、バスや電車に乗り込む。
その時にマスクをする。
つけっぱなしにはしない。
約めていえば、リスクの高い場所ではマスクを必ずつける。
低い場所では外す。
みんながマスクをしているから自分もつけるという、同調行動はとらない。
感染確率の高い場所は、コロナをうつすことも、うつされることも表裏一体にあるのだから、とりわけ意識を高めたい。
しかし公園を散歩する人も、海辺を遊歩する人もマスクをつけるのは奇態だ。
確率的行動様式とは言えない。

七月に入り、二度旅行した。
京都二泊三日と、奥湯河原である。
写真は、その時の新幹線車内のスナップだ。
一列5席の端端にしか乗客は座っていない。
社会的ディスタンス、三密をクリヤーしている。
これでいい。
確率的なコロナ感染回避策が取られている。
気になる場所に立ち寄った時は、三日・四日後の検温を気にしている。
「感染経路不明」となってしまうような無意識行動が問題だ。
できるだけ意識的に行動するのが確率的生活様式の根本だと思う。
旅行業とそれに関連する事業業務にたずさわる人達の生活(いのち)がおびやかされている。
お上が率先するGo Toは気に入らないが、何もかも手放すのもどういうものか。
旅先でも地元と行動原理は変わらない。
狭くて密集しやすい場所や換気の悪い、もしくはできていない場所は意識的に避ける。
そうした場所での長話や飲食はシャットアウトする。
手洗いで接触感染は防げる。
感染を減らすことができる。
エレベーターのボタンを肘で押すような真似をする必要はない。
残る主な感染経路は飲食、長話の時の「エアロゾル」だ。
消去的に残るのは、飲食等の行動だ。
確率的行動様式のポイントはこれを意識的にコントロールすることだろう。