2015-03-30 Mon 14:53
タイトルのブログにおいて、池田氏は次のように書きはじめている。
“古賀茂明氏が「報道ステーション」で、番組と関係なく「テレビ朝日の早河会長とか古舘プロジェクトの佐藤会長の圧力で降ろされるのは残念だ」という恨み節を語り始め、最後は"I am not ABE"という(局に無断で)自分でつくったプラカードを掲げる珍事件が起こった。前後15分近く、出演者が私怨をぶちまけたのは放送事故に近い。” リンクを貼った箇所を実際にクックしてみよう。 「この動画はユーザーにより削除されました。」 ネットに拡散したコピーもすべて消去されていた。 私は偶然その画面を見ていたが、見てない人、見ることのできなくなった国民は自主的な判断を下せなくなった。 古賀氏が何を言おうと言論は言論である。 彼を批判するには、当該の発言をそのまま見て判断すればいいことだ。 削除する必要があるだろうか。 発言は抹殺になった。 いや、元が見れなくなれば抹殺された事実すら確認できない。 発言の事実を根こそぎ引っこ抜いてしまう。 言論弾圧と声高にいう以上に、事実を抹殺する巧妙で深刻な言論操作が進行しているのを感じる。 当然誰がどういう意図で削除したのか分からないまま、言論のわずかな火種は消化された。 「この動画はユーザーにより削除されました。」の表示は、「言論弾圧」のうっすらとした痕跡を残すばかりだ。 たぶん言論弾圧と言うのは、こうした隠微で陰気で、外見は穏やかな措置だろうと・・・想像する。 つづいて、池田氏はこう付け加える。 “奇妙なのは、彼が今回で降ろされるという事実関係がはっきりしないことだ。” にもかかわらず、こう断定する。 “古舘氏もいうように4月以降も、話題に応じて出てもらう可能性もあった(この事件でなくなっただろうが)。古賀氏のいう「菅官房長官から局に圧力がかかった」ということもありえない。私はNHKの『日曜討論』というもっとも政治的圧力の強い番組を担当していたが、政治家が出演者をおろせなどということは絶対ない(あったら大事件になる)」。” 断定の根拠をしいて探せば、池田氏の個人的体験である。 それ以外は何もない。 つまりは、「事実関係がはっきりしない」と自ら述べているのだから、そこから先きは推測以外の何ものでもない。 「事実関係がはっきりしない」のだから、そこから先きは口を閉ざせばいいことであるが、何に取りつかれたのか、推測に推測を重ね、根拠にならない事実関係無視の飛躍で古賀氏を吊るし上げる。 非論理的思考の果てにある心的状態を妄想というのであれば、池田氏こそ妄想に取りつかれている。 「古賀茂明氏の被害妄想」の前に、池田氏の妄想にいぶかるのは私だけであろうか。 池田氏の経済に関するブログは学ぶところが多く敬重しているが、続くブログにおいて妄想はさらに膨れ上がる。 左翼小児病を生む「純粋信仰」 “古賀氏のように「リベラル」が極左化して自滅するケースは珍しくない。私はそういう人を山ほど見てきた。中には内ゲバで殺された人もいたし、職場を追われた人もいた。それは彼らが悪意をもっていたからではなく、むしろまじめで純粋な人ほど、そうなりやすい。” 政府批判を真っ向から言い放つ古賀氏を極左と呼ぶなら、私も極左と言うことになりそうだ。 これは空恐ろしい論理だ。 「むしろまじめで純粋な人ほど、そうなりやすい。」にうなづけないこともないが、額にはしっかり極左のレッテルを貼付ける。 さらに引き続くブログ「政府とマスコミの微妙な関係」においても、初出のブログと同じ根拠をくり返している。 根拠がないのだから、同じ論理をもち出すしか手はないとはいえ、拙劣をきわめている。 “報道ステーションの騒動について、古賀茂明氏がまだインタビューでいろいろ言っているようだが、彼のいう「官邸の圧力」の証拠は何もない。政府が個別の番組や人事について放送局に介入することはありえないし、あったら大変なことになる。” 「ありえないし、あったら大変なことになる」のは正当な主張である。 しかし事実関係が分からないのであるから、当為「あってはならないこと」は言えても、事実「ありえない」とまでは言えない。 あったかどうかはあいかわらず藪の中で、そう感じ、そう主張している言論を消去し、事実上封じてしまう必要はない。 そして、最後の段落において、次のような言い訳をはじめている。 “ただし間接的な形では、いろいろな政治的圧力がかかる。たとえばロッキード事件のころは毎年、社会部長の人事をめぐって島グループと上田哲グループの多数派工作が行なわれた。毎日のニュースでも、編責の派閥によってオーダーが変わる。政治的圧力はそういう微妙な形でかかるもので、力のある政治家はあからさまな介入はしないし、する必要もないのだ。” 池田氏は語るに落ちた。 「ただし間接的な形では、いろいろな政治的圧力がかかる。」 「政治的圧力はそういう微妙な形でかかるもので、力のある政治家はあからさまな介入はしないし、する必要もないのだ。」 眼に見えるあからさまな言論弾圧をする権力者像は映画か、ドラマか、劇画の世界だ。 むしろ極左とレッルを張り、「リベラル」が極左化するかのようなわけの分からない論理に違和感を感じる。 彼は「リベラル」は極左とイコールだとはいってないようだが、次にねらわれるのは「リベラル」という気がしてくるから、悩ましい。 古賀氏の妄想よりも、私と同じような年回りの暴走老人の妄想に、時代がむかっている危険なにおいがただよってくるのを感じている。 [追記] youtubeに「報道ステーション」の当該場面の音声録画が見つかりましたので、掲載いたします。
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