スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
別窓 | スポンサー広告 | ∧top | under∨
それは“実存”とよばれた
2011-02-21 Mon 18:33
ルールが変わったことを真っ先に知るのは痛い目にあった者だ。
しかし往々にして真実はなぜか伝わらない。
それは痛い目にあった者が声を失うからだ。

「声が出せないほど打ちのめされるからだ。」

僕は長い間そう考えてきた。
しかしそれは違う。
彼らは変化を受け入れないのだ。

現実を見ず、
柔軟性に欠け、
変化を否定する心性が立ちはだかるからだ。

あたかも同じルールが生き続けているように、変わろうとしない。

家族で経営していた小さな商店は、巨大な量販店やテレショップにのみ込まれた。
土地(所有者)を持った者は、21年間毎年値下がりの「通知」を受けとってきた。
さくっとあがったトンカツを食わせる近所の豚カツ屋は、近くにチェーン店ができ客足が途絶えて十年以上になるが、メニューすら十年一日変わらない。

変わらない事がリスクをまねいているとは考えない。

それを維持する事が不利である証拠も、実績も突きつけられているのに、変化を受け入れられない。
ルールが変わったのだ。
変わらなければならないのは、自分だ。

人間は世界にエクスポージャー(exposure)された存在である事を知ったのはまだ若い頃だった。
青年の頃、それを小説やこむずかしい哲学書で知った。
サルトルの『嘔吐』、『自由への道』で分かったつもりになった。

当時それは“実存”とよばれた。

僕は「正規社員」は鎖につながれた奴隷だと思っている。
身分保障された生活を捨てなければ自由などないと考えている。
終身雇用で生活は報われても、生きた証は芥子粒ほどもありやしない。

この国もこの国の若者たちもなぜ戦わなくなったのか。
関連記事
スポンサーサイト
別窓 | 事実データ&思考 | コメント:0 | トラックバック:0 | ∧top | under∨
| 三保小次郎日誌 |
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。